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きんだいち きょうすけ
金田一 京助
〔1882(明治15年)
〜1971(昭和46年)〕 |
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・国語辞典編集で名高いが、言語学者として生涯を捧げたアイヌ語研究によってアイ
ヌ文化が世に知られることになる。
・東京帝大(現東大)入学にてアイヌ語研究を志し、国学院大・東京帝国大・早稲田大
の教授・講師を兼任しながら、北海道や樺太を何度も訪れアイヌの人々と触れ合い
アイヌ語や口承文学「ユーカラ」の筆録と研究を重ねた。代表作として「アイヌ叙事詩
ユーカラの研究」、「アイヌ叙事詩ユーカラ集全9巻」がある。
・歌人としても知られ、石川啄木とは盛岡高等小学校(現中学校)以来の親友関係に
あり、啄木没後は啄木関係の著作・寄稿等を通じて紹介につとめた。 |
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に と べ いなぞう
新渡戸 稲造
〔1862(文久2年)
〜1933(昭和8年)〕 |
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・五千円札の人物として知られているが、若き日に『われ太平洋の橋とならん』と志望
し、国際人・教育者として東洋西洋の思想文化の橋渡し役を生涯を通し体現した。
・アメリカ滞在時に英文著作「BUSHIDO(武士道)」を出版し、当時あまり知られていな
かった日本文化・民族を海外に知らしめた。以来、日本を知る格好の書物として各国
で翻訳出版され、また第26代米大統領ルーズベルトが愛読し、日露戦争における両国
の講和仲介の動機付けとなっている。
・新渡戸の存在が国際的に知られることとなった国際連盟の事務次長就任をはじめ、
欧米各地の数多くの講演や太平洋問題調査会理事長を通し国際平和に尽力した。
特に、国内に台頭しつつある軍国主義的風潮を批判し、対外的には日本の国際的な
孤立化を防ぐために腐心した。 |
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はら たかし
原 敬
〔1856(安政3年)
〜1921(大正10年)〕 |
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・初の平民宰相として歓迎された第19代内閣総理大臣。従来の藩閥、官僚、貴族院の
勢力を排し、初めて国民が選挙で選んだ政党政治を確立し、日本の改革をめざし取
り組んでいたが、遊説に向かう東京駅で無念にも青年暴漢に暗殺された。
・原内閣は、「教育改革」:国立高等学校(現大学)倍増など教育機関の大幅な増設な
ど、「地方振興整備」:既存鉄道網の倍にあたる地方新線の建設や電信・電話の拡張
など、また「選挙権の拡大」や「皇室の民主化」を図り、現代に通ずる改革を実施。
・日本経済新聞(平成2年11月)「歴代総理大臣10傑」では、第1位に原敬が評され、
以下吉田茂、伊藤博文、西園寺公望、池田勇人・・・の順であった。
・原敬は南部藩家老の家に生まれたが、戊辰戦争の降伏などから士族の身分を捨て
上京。その後、薩長の門閥の前で挫折を味わいながらも、外務官僚(次官経験)や
新聞社社長などを経て、逓信・内務大臣を数回歴任した後に総理大臣となった。 |
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よない みつまさ
米内 光政
〔1880(明治13年)
〜1948(昭和23年)〕 |
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・良識の提督として評された第37代内閣総理大臣。海軍畑にて生涯を捧げた米内は、
日中戦争には戦線不拡大方針を唱え、又陸軍の推進する日独伊三国同盟締結には
一貫して反対した。 優れた国際感覚と物事の本質を見極める目を持ち合せていたこ
とが、良識の提督と言われた由縁である。
・海軍大学校卒業後ロシア・ワルシャワ・ベルリンなど駐在を経験し、ロシア革命前後
や第一次世界大戦後のヨーロッパ情勢を目の当たりにして国際感覚を身につけた。
・米内の名が一躍知られるようになったのは、連合艦隊司令長官となってからのこと。
間もなく山本五十六らの強い働きで海軍大臣となり3内閣を歴任後に内閣総理大臣
に就任した。
・首相退任後の太平洋戦争では、発言を政治に反映できなかったが、末期に懇請され
再び海軍大臣として復帰したが、既に敗戦必至の情勢と判断し、秘かに戦争終結に
向けて力を尽くした。 |
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たかの ちょうえい
高野 長英
〔1804(文化1年)
〜1850(嘉永3年)〕 |
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・江戸後期の蘭学者。西洋医学や西洋事情を研究し、多くの著作を通し功績を残した。
また、幕府の対外政策を批判し、身を犠牲にして警世の鐘を鳴らしたことでも知られ
ている。 しかし、このため永牢の刑(蛮杜の獄)など波乱の多い生涯となった。
・水沢藩(現岩手県水沢市)の藩士の家に生まれ、若くして蘭学を学び医学を志し、江
戸・長崎と渡りシーボルト塾などで西洋医学を学んだ。その後江戸に戻り、医業をしなが
ら著作・翻訳に努め、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著した。
・また、あの有名な天保の大飢饉には「救荒ニ物考」を著し、救荒作物の栽培・貯蔵・
調理を薦めたり、「避疫要法」を著し、悪疫防止方策を説いた。
・しかし、その後幕府の外国船打払令を批判した「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を著して永牢
(終身禁固)の刑となった。
出火に乗じて脱獄し、薬品で顔を変え、変名して各地を
転々とし翻訳・医療を続けたが、隠れ家を襲れ自殺による最期となった。 |
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ごとう しんぺい
後藤 新平
〔1857(安政4年)
〜1929(昭和4年)〕 |
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・明治大正期の政治家。関東大震災後における東京復興計画を立て「大風呂敷」と称
されたことは有名である。常に欧米の新知識を吸収し、アイデア溢れる施策にて多く
の近代における新分野開拓に貢献した。政界では惑星的存在であったが、大隈重信
と並び国民に訴えかける政治家として人気を博した。
・後藤は一族であった高野長英と同じく医者の道に進み、のちに内務省衛生局に入っ
た。その後、台湾総督府民政長官として台湾統治に尽力し、その功績で貴族院勅撰
議員となった。以後、南満州鉄道初代総裁、桂内閣では逓相、内相、外相、及び東京
市長を歴任し活躍した。 そして、第二次山本内閣の内相兼帝都復興院総裁として、
東京復興計画を立て、東京の都市計画に強力な指導力を発揮した。
・後藤新平は水沢藩(現岩手県水沢市)に生まれ、斎藤實(第30代総理)とは竹馬の
友であり、”郷の三秀才”とうたわれた。また、同じ岩手出身の新渡戸稲造とも交友
関係にあり、新渡戸の国際的な活動の支えとなった。 |
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いしかわ たくぼく
石川 啄木
〔1886(明治19)
〜1912(明治45)〕 |
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・「国民詩人」として愛されてきた明治期を代表する詩人。生まれ育った故郷を懐かしく
思う望郷詩で愛唱され続けた啄木は、結核を患い26才の若さで短い生涯を終えた。
歌人としての栄光は死後であり、死の2年前に刊行した「一握の砂」と、死後刊行され
た「悲しき玩具」が、不朽の歌人の地位を与えた。
・啄木は岩手県の現在の玉山村に生まれ、幼くして神童と呼ばれ鋭敏な感受性をもつ
少年であった。盛岡中学校(現:盛岡一高)では、教師や先輩金田一京助らの影響を
受け文学への傾斜を深めた。与謝野鉄幹の雑誌「明星」に短歌が掲載されたのを機
に、文学で身を立てるため上京したが、失意の内に帰郷。
帰郷後、処女詩集「あこがれ」を刊行したが、その後郷里で代用教員、函館にて代用
教員・新聞社勤務、そして札幌、小樽、釧路へと移り記者として活躍したが、再度文学
活動を決意し上京。
・上京後、先輩金田一京助の世話のもと、小説の執筆に専念したが文壇から評価され
ず、朝日新聞社に入社。 ここで文学者石川啄木を大きく発展させる母胎となり、歌集
「一握の砂」を刊行し、また、大逆事件に関心をもち、「時代閉塞の現状」を中心とする
優れた評論の執筆をした。
しかしながら、生活の貧困も助長し、すでにその頃肉体は病に冒されており、母の死を
追うように短い生涯を閉じた。 |
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のむら こどう
野村 胡堂
〔1882(明治15年)
〜1963(昭和38年)〕 |
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・テレビや映画でお馴染みとなった「銭形平次」の”生みの親”で、27年間にわたり執筆
した代表作「銭形平次捕物控(383編)」や「池田大助捕物全集(全10巻)」等の作品が
ある。また、”あらえびす”のペンネームで、日本のクラシック音楽黎明期に先駆者とし
て大きな業績を残した、音楽評論家でもある。
・野村胡堂(本名:野村長一(おさかず))は、盛岡市の南に位置する現紫波町に生まれ、
旧制盛岡中学卒業後、東京帝国大学法科入学。 その後報知新聞社に入社し記者
生活に入り、胡堂やあらえびすのペンネームで記事を連載した。
・昭和6年に文芸春秋社「文芸春秋オール読物号」に”銭形平次”を創作掲載し、以後27
年間にわたり書き続けた。中高年者馴染みの”銭形平次”は、これが原作である。
・岩手の先人達として既に紹介した、金田一京助や石川啄木等と盛岡中学時代を過ご
し、後輩であった啄木には文学傾斜の影響を与えたと言われている。
地元紫波町には、胡堂の作家・音楽評論家としての業績を賛え、「野村胡堂・あらえび
す記念館」が建立されている。 |
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みやざわ けんじ
宮沢 賢治
〔1896(明治29年)
〜1933(昭和8年)〕 |
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誰もが一度は見聞きしている「風ニモマケズ」を始め、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」
などたくさんの名作を遺した童話作家・詩人としてあまりにも有名であるが、作品は世界
各国に紹介されているほどである。
また、賢治は文学者であるばかりでなく、教育者であり、農業者であり、そして天文・
地質・生物・哲学・音楽・・・・あげればきりがないほど多彩な面をもち、37年の短い人生
をあらゆるものに捧げた。
・賢治は盛岡高等農林卒業後、ふるさと花巻の農学校で教鞭をとり、この時代に多くの
詩や童話を創作した。
・30歳で教職を離れ独居生活に入った。ここで「羅須地人協会」をつくり農民講座を開設
し、青年たちに農業を指導した。賢治自身が、「イーハトープ」と呼びこよなく愛した岩手
の大地とともに生きる農民でもあった。
・当時の東北地方は冷害に疲弊し困窮・過酷な時代の中、晩年は生きる力のすべてを
注ぎ、農業指導・研究に取り組んだ。
賢治生誕の花巻市内には、宮沢賢治記念館などゆかりの地が随所に点在し、賢治の
生涯や作品を肌で感じられる。 |
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