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『岩手の地域紹介』シリーズ
江刺市/岩手名湯・秘湯/平泉町/花巻市/北上市/二戸市/宮古市
大船渡市/八幡平/盛岡市/遠野市
『岩手の先人達』シリーズ
金田一京助/新渡戸稲造/原敬/米内光政/高野長英/後藤新平
石川啄木/野村胡堂/宮沢賢治
 
 〜『岩手の地域紹介』シリーズ〜
東北のハリウッド」
 〜岩手県江刺市〜 
  岩手県中南部に位置し、北上川流域平野から北上山地におよぶ江刺市は、豊かな
  自然に恵まれた田園文化都市。平成5年に開園した歴史公園「えさし藤原の郷」が
  今、ロケ地として脚光を浴びている。
  ・NHK大河ドラマ「炎立つ」のメーンロケ地として平安建築による郷を造ったもので、
   その後も大河ドラマ「秀吉」、「毛利元就」、「利家とまつ」をはじめし、「宮本武蔵」、
   「千年の恋」などの時代劇を中心に数多くのロケ地となっている。
   当市は市民総出でロケ支援をはかり、「東北のハリウッド」をめざしている。
  また、恵まれた気候風土と優れた技術で育てられた農産物は、全国的に高い評価を
  得ており、その代表する江刺りんご、江刺金札米などは有名である。
  そして、岩谷堂箪笥、岩谷堂羊羹、卵めんなど多くの伝統物産を今に伝える、職人技
  が息づくまちである。

「温泉天国・岩手」の
  名湯・秘湯
  寒い時期はやっぱり温泉が最高。心身共にホットになります。
  岩手には奥羽山脈沿いに名湯・秘湯をはじめとする温泉が数多く存在し、こだわりの
  温泉旅を望む方のために、耳よりな温泉情報を紹介します。
  温泉天国・岩手ならではの温泉めぐりをどうぞ。
  ・【花巻温泉郷】:全国的にも有名な温泉郷でバラエティに富んでいる。 その1つの
   「鉛温泉」には深さ1.5mで立ってしか入浴できない珍しい”白猿の湯”があり、また
   「大沢温泉」は1200年前の開湯と伝えられ、宮沢賢治や高村光太郎などの著名人
   も愛した川沿いの露天風呂がある。
  ・【湯田温泉峡】:奥羽山脈分水嶺の秋田県に隣接する温泉峡で、駅に温泉が併設さ
   れている川尻温泉ほっとゆだ駅、砂蒸し風呂の”砂ゆっこ”、洞窟風呂の”穴ゆっこ”
   などがある。
  ・【国見温泉】:全国的にも珍しい緑色の温泉で、希少価値がある炭酸重曹土類硫化
   水素を含んだ温泉。
  ・【夏油(げとう)温泉】:川沿いに点在する露天風呂や内風呂の野趣あふれる温泉は、
   ”日本秘湯を守る会”の会員に恥じない素晴らしさ。
  ・【藤七温泉】:東北で最も高い場所に涌き出る温泉。八幡平の大自然の中で山並み
   を眺める露天風呂は人気。        

「奥州藤原三代夢の跡」
 〜岩手県平泉町〜
  岩手県南部の北上川沿いに位置する平泉町。平泉の名は、中尊寺金色堂や毛越寺
  など3000以上の国宝・重要文化財が残る観光名所として名高い。
  ・ これらは平安時代後期の奥州藤原三代(初代清衡、二代基衡、三代秀衡)の黄金
   文化を今に伝えるもので、四代泰衡が源頼朝に滅ぼされるまで100年で築き上げた
   栄華の跡である。のちに、松尾芭蕉がこの地を訪れ有名な句を詠んでいる。
      ”夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡” (奥の細道)
   また、源義経が兄頼朝に追われての終焉の地でもある。
  ・初代の藤原清衡は、前九年の役・後三年の役を経て、計らずも統治することとなり、
   本拠を平泉に構えた。 その後勢力をのばし、奥州(現福島県・白河の関以北)の広
   範囲を支配するに至った。そして、三代秀衡は都(京都)より陸奥守(奥州統治者)を
   任命され、平泉を中心とした藤原三代の地方政権が頂点となった。
  ・奥州は当時唯一の金の産地であり、また馬、和紙、漆なども産しており、その強大な
   経済力を背景に黄金文化を築き上げた。 今に伝わるきらびやかな金色堂や秀衡塗
   などが物語っている。 また、マルコポーロの「東方見聞録」に”黄金の国・ジパング”
   と登場するが、平泉が黄金伝説の源流の地と伝えられている。        

イーハトープ・賢治のふる里」
 〜岩手県花巻市〜
 岩手県南部の北上川沿いに位置する花巻市。花巻市は、何と言っても多くの人が知っ
 ている「風ニモマケズ」を著し、岩手県をイーハトープと呼んだ宮沢賢治生誕の地である。
 また、花巻温泉郷は全国有数の温泉地で、渓流沿いに数多くの温泉が涌き出ており、
 温泉天国・岩手を代表する名所でもある。
 ・宮沢賢治は、文学者として「風ニモマケズ」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」等数々
  の名作を遺しただけでなく、科学者として地質学・天文学・生物学などを研究し、また
  教育者として学校で教鞭をとったりと、37年の短い人生をあらゆるものに捧げた。
  市内には賢治ゆかりの地が随所に点在する。
 ・また、賢治と親交のあった彫刻家・高村光太郎が晩年をこの地で過ごしており、それを
  記念した高村山荘や高村記念館がある。
 ・県立自然公園の花巻温泉郷は、市西部の奥羽山脈沿いに11の温泉「花巻温泉」、
  「志戸平温泉」、「台温泉」、「大沢温泉」、「渡り温泉」、「鉛温泉」、「新鉛温泉」、「新
  湯本温泉」、「松倉温泉」、「高倉山温泉」、「金矢温泉」を有し、さながら温泉銀座とも
  言える、個性あふれるいで湯がいっぱいである。
 ・その他にも、今では岩手名物となっている「わんこそば」は花巻が本場と言われており、
  また郷土芸能「花巻鹿踊」なども有名である。        

「桜の名所・北上展勝地」
 〜岩手県北上市〜
 岩手県南部の北上平野ほぼ中央に位置する北上市。北上市は盛岡市に次ぐ県下第二
 の都市で、古くから交通の要衝として栄え、工業出荷額では現在県内一の集積をもって
 いる。
 北上市では毎年各種イベントが開催されており、その中でも「北上展勝地さくらまつり」、
 「北上みちのく芸能まつり」は代表イベント。特に、例年4月下旬が見頃の”北上展勝地
 のさくら”は必見物で、青森の弘前城、秋田の角館に並ぶ、”みちのく三大桜の名所”の
 一つでもある。
 ・展勝地のさくらは、ソメイヨシノやベニヤマザクラなど約1万本が咲き乱れ見ごたえがあ
  る。桜並木のトンネルを潜るもよし、高台に上り桜並木と北上川の絶景を楽しむもよし、
  十分満喫できる。他にも、みちのく民俗村(野外博物館)、サトウハチロウ記念舘、北上
  夜曲碑なども楽しめる。
 ・また、北上市は”鬼剣舞のまち”とも言われ、鬼剣舞は代表する伝統芸能で、学校の
  催し物に取り入れたりと伝承を図っている。夏(8月7・8・9日)には、東北六大まつりに
  指定されている”みちのく芸能まつり”が開催され、鬼剣舞をはじめ100余の伝統芸能
  が一同に介し競演する様は見ごたえ有。        

「穀彩王国・カシオペア連邦」
 〜岩手県二戸市〜
 岩手県北の青森県境に位置する二戸市。二戸市は、歴史と自然景観に満ちた都市で、
 豊臣秀吉の天下平定の最後の戦場となったことから、九戸城物語でも有名な九戸城跡
 (国指定史跡)や雨滝遺跡を始め多数の遺跡があり歴史を感じさせくれる。
  そして、県立自然公園折爪馬仙峡や金田一温泉郷など県北随一の景勝地でもある。
 ・二戸市と近隣の4町村(浄法寺町・一戸町・軽米町・九戸村)は”カシオペア連邦”と称
  し、各種事業の協力推進を図っており、平成14年12月には新幹線二戸駅が開業し、
  地域の観光・産業の活性化が期待されている。
 ・また、この地域は”穀彩王国”と呼ばれ、雑穀生産量日本一の岩手における主要産地
  であり、白米全盛の時代にも主食であり続けた「雑穀の本場」である。 主に栽培され
  ている雑穀類は、そば・大豆・アマランサス・あわ・きび・ひえ等で、今もなお雑穀料理として
  食生活の中で生き続けている。
 ・雑穀は、健康食・美容食として最近注目を集めている。
  白米に比べて栄養価(タンパク質、カルシウム、鉄分、食物繊維)が高く、日本人のさまざまな
  現代病に有効とも言われ、雑穀を食する人が増えている。
  雑穀料理には、昔ながらの”そば、ひっつみ、餅、団子、煎餅”などの他に、最近では
  五穀ラーメン、雑穀カレー、雑穀寿司など多彩な味わいが楽しめるようになっている。
  みなさんも雑穀を一考してみてはどうでしょうか。 

「本州最東端のまち」
 〜岩手県宮古市〜
 ・岩手県三陸沿岸部の中央に位置する宮古市は、太平洋を望む”本州最東端のまち”。
  風光明媚な陸中海岸国立公園の中心地であり、海産の宝庫で知られる三陸漁場の
  拠点でもある。 また、本州随一のサケの河川水揚げを誇る”サケのまち”でもある。
 ・何と言っても宮古市を代表するのは景勝地「浄土ヶ浜」で、陸中海岸国立公園の中心
  をなし、松の緑、岩肌の白、海の群青がかもし出すコントラストは絶景で必見ものです。
  浄土ヶ浜の名は”さながら極楽浄土のごとし”と感嘆したことが由来と言われる。
  海水浴場としても有名で、夏には人出で賑わいを見せる。
  他にも、波が打ち寄せると潮を吹き上げる、国の天然記念物に指定されている、全国
  的にも珍しい「潮吹穴」や、初日の出展望等も名高い。
 ・また、世界有数の三陸漁場を抱えており、漁業拠点として時期折々の美味しい魚介が
  水揚げされる。「宮古市魚菜市場」では、水揚げされた新鮮魚介や地元農家の野菜が
  ずらりと並べられており、お土産選びにもってこいの場所です。
 ♪是非一度三陸の旅を兼ねて訪ねてみてはどうですか。 

「水産のまち・サンマのまち」
 〜岩手県大船渡市〜
 岩手県三陸沿岸最南部に位置する大船渡市。目の前に世界有数の三陸漁場があり、
 県内一の漁獲量を誇る”水産のまち” で、なかでも大船渡の”さんま”は有名。 
 また、風光明媚な美しい自然環境に恵まれており、天然の良港大船渡湾、リアス式の
 景勝地碁石海岸、三陸沿岸最高峰五葉山など観光名所も多い。 
 反面、この美しい自然を作り上げたリアス地形は津波が発達しやすく、昭和35年のチリ
 地震津波では国内最大の被災地となったつらい歴史もある。
 ・大船渡は”さんまのまち”とも言われ、秋のさんま時期には漁港がひときわ活気づく。
  全国から”さんまは大船渡に限る”と好評で、特に、15年以上に亘る”さんま直送便”
  事業は人気。
 ・また、観光スポットのお薦めは、多くの奇岩、絶壁、洞窟が点在する碁石海岸。浸食で
  三つの穴があいた「穴通磯(アナトオシイソ)」、雷のような響きをだす洞穴で”残したい音風景
  百選”の「雷岩(カミナリイワ)」、そして”日本の渚百選”の「碁石浜(ゴイシハマ)」など必見物で、
  大自然の偉大な力を五感で感じられる。
♪是非一度三陸の旅を兼ねて訪ねてみてはどうですか。 

「秋の彩り・国立公園
 八幡平
(はちまんたい)
 岩手県の北西部に位置し、岩手・秋田両県にまたがる国立公園八幡平は、標高1400
 〜1600mの高原状火山台地。頂上付近はブナ林の中に数多くの湖沼が点在する高層
 湿原地帯で、まさに”樹海の中に輝くエメラルドの沼”である。
 湿原では、ミズバショウ、レンゲツツジなどさまざまな高山植物が四季を通じ楽しめる。
 特に秋の紅葉は、一面が燃え上がるように赤く染まり美しさ格別です。
 ・八幡平周辺は東北最大リゾートエリアで、広大なゲレンデをもつ東北有数のスキー場
  (安比高原、八幡平など)や、ゴルフ、テニスなどのスポーツ施設が整っている。
 ・そして、温泉(松川、後生掛、藤七、玉川など)も多く点在し名湯・秘湯巡りが楽しめる。
 八幡平は、観光に、レジャーに、温泉にと一年を通して賑わう人気の名所。 とりわけ、
 10月の今が真っ盛りの紅葉は”秋の彩り”を十分満喫させてくれます。
 是非一度お訪ね下さい。 

「みちのくの古都」
 〜岩手県盛岡市〜
 岩手県のほぼ中央に位置する県都・盛岡市は、もとより県内の政治、経済、文化の
 中心地である。
 南部藩二十万石の城下町として発展した北東北の中核都市で、その歴史を物語る
 名所・旧跡等がたくさん残っており、その一部を紹介してみる。
 ・盛岡の地は、南部信直が豊臣秀吉より領有を認められ、不来方(こずかた)と呼ばれ
  ていたこの地を盛岡と改め、盛岡城(別名:不来方城)を築城した。
  明治になって建物は取り壊されたが、荘重な石垣が殆ど残っており、岩手公園として
  親しまれている。
 ・また、盛岡にゆかりがある、様々な分野で活躍した先人(原敬、金田一京助、新渡戸
  稲造など)が多く、その生い立ちや功績を「盛岡市先人記念館」や「原敬記念館」にて
  紹介している。 そして、宮沢賢治・石川啄木を代表とする文学の街でもあり、市内の
  あちらこちらにゆかりの文学碑や彫刻がある。
 ・そのほか、巨大な花崗岩の岩の狭い割れ目から咲く珍しい桜で、国の天然記念物の
  「石割桜」や、江戸期・明治・大正そして昭和初期に竣工した歴史的建造物(岩手銀行
  中ノ橋支店、盛岡信用金庫本店、紺屋町番屋など)が点在し、古き面影を偲ばせる。
 徒歩で盛岡の歴史探訪を楽しんでみてはどうですか。そして、ちょっとお腹がすいたら、
 名物のわんこそば、盛岡冷麺、じゃじゃ麺、南部煎餅など本場で味わってみて下さい。 

「民話と伝説の里」
 〜岩手県遠野市〜
 遠野市は岩手県の東南部に位置し、県を縦断する北上山系の一画に広がる盆地の町。
 今日では「民話のふるさと遠野」として全国的に知られ、「遠野物語(柳田國男編纂)」
 は名高い。 昔から語り継がれてきた素朴な民話や、風土色豊な数々の郷土文化は
 貴重な遺産であり、自然と伝統が息づく里である。その遠野郷を垣間見る観光スポット
 を一部紹介してみる。
 ・「遠野ふるさと村」:さまざまな農村体験が出来る懐かしい農村を再現。南部の曲り家
  集落となっている。
 ・「とおの昔話村」:柳田國男が遠野物語を書くために滞在した旅館”柳翁宿”、その物語
  が聞ける”物語蔵”、昔話の歴史などを紹介している”資料館”がある。
 ・「伝承園」:遠野地方農家のかつての生活様式を再現しており、伝承行事、昔話、民芸
  品の製作・実演が体験できる。
  また、重要文化財の”曲り家”、遠野物語の話者”佐々木喜善記念館”などがある。
 日本民俗学発祥の基礎となった遠野。その文化と伝統の世界を探訪してみて下さい。 
 
 
 〜『岩手の先人達』シリーズ〜
きんだいち きょうすけ
金田一 京助
〔1882(明治15年)
 〜1971(昭和46年)〕
  ・国語辞典編集で名高いが、言語学者として生涯を捧げたアイヌ語研究によってアイ
   ヌ文化が世に知られることになる。
  ・東京帝大(現東大)入学にてアイヌ語研究を志し、国学院大・東京帝国大・早稲田大
   の教授・講師を兼任しながら、北海道や樺太を何度も訪れアイヌの人々と触れ合い
   アイヌ語や口承文学「ユーカラ」の筆録と研究を重ねた。代表作として「アイヌ叙事詩
   ユーカラの研究」、「アイヌ叙事詩ユーカラ集全9巻」がある。
  ・歌人としても知られ、石川啄木とは盛岡高等小学校(現中学校)以来の親友関係に
   あり、啄木没後は啄木関係の著作・寄稿等を通じて紹介につとめた。

に と べ   いなぞう
新渡戸 稲造
〔1862(文久2年)
 〜1933(昭和8年)〕
  ・五千円札の人物として知られているが、若き日に『われ太平洋の橋とならん』と志望
   し、国際人・教育者として東洋西洋の思想文化の橋渡し役を生涯を通し体現した。
  ・アメリカ滞在時に英文著作「BUSHIDO(武士道)」を出版し、当時あまり知られていな
   かった日本文化・民族を海外に知らしめた。以来、日本を知る格好の書物として各国
   で翻訳出版され、また第26代米大統領ルーズベルトが愛読し、日露戦争における両国
   の講和仲介の動機付けとなっている。
  ・新渡戸の存在が国際的に知られることとなった国際連盟の事務次長就任をはじめ、
   欧米各地の数多くの講演や太平洋問題調査会理事長を通し国際平和に尽力した。
   特に、国内に台頭しつつある軍国主義的風潮を批判し、対外的には日本の国際的な
   孤立化を防ぐために腐心した。

はら たかし
原 敬
〔1856(安政3年)
 〜1921(大正10年)〕
  ・初の平民宰相として歓迎された第19代内閣総理大臣。従来の藩閥、官僚、貴族院の
   勢力を排し、初めて国民が選挙で選んだ政党政治を確立し、日本の改革をめざし取
   り組んでいたが、遊説に向かう東京駅で無念にも青年暴漢に暗殺された。
  ・原内閣は、「教育改革」:国立高等学校(現大学)倍増など教育機関の大幅な増設な
   ど、「地方振興整備」:既存鉄道網の倍にあたる地方新線の建設や電信・電話の拡張
   など、また「選挙権の拡大」や「皇室の民主化」を図り、現代に通ずる改革を実施。
  ・日本経済新聞(平成2年11月)「歴代総理大臣10傑」では、第1位に原敬が評され、
   以下吉田茂、伊藤博文、西園寺公望、池田勇人・・・の順であった。
  ・原敬は南部藩家老の家に生まれたが、戊辰戦争の降伏などから士族の身分を捨て
   上京。その後、薩長の門閥の前で挫折を味わいながらも、外務官僚(次官経験)や
   新聞社社長などを経て、逓信・内務大臣を数回歴任した後に総理大臣となった。   

よない みつまさ
米内 光政
〔1880(明治13年)
 〜1948(昭和23年)〕
  ・良識の提督として評された第37代内閣総理大臣。海軍畑にて生涯を捧げた米内は、
   日中戦争には戦線不拡大方針を唱え、又陸軍の推進する日独伊三国同盟締結には
   一貫して反対した。 優れた国際感覚と物事の本質を見極める目を持ち合せていたこ
   とが、良識の提督と言われた由縁である。
  ・海軍大学校卒業後ロシア・ワルシャワ・ベルリンなど駐在を経験し、ロシア革命前後
   や第一次世界大戦後のヨーロッパ情勢を目の当たりにして国際感覚を身につけた。
  ・米内の名が一躍知られるようになったのは、連合艦隊司令長官となってからのこと。
   間もなく山本五十六らの強い働きで海軍大臣となり3内閣を歴任後に内閣総理大臣
   に就任した。
  ・首相退任後の太平洋戦争では、発言を政治に反映できなかったが、末期に懇請され
   再び海軍大臣として復帰したが、既に敗戦必至の情勢と判断し、秘かに戦争終結に
   向けて力を尽くした。      

たかの ちょうえい
高野 長英

〔1804(文化1年)
 〜1850(嘉永3年)〕
  ・江戸後期の蘭学者。西洋医学や西洋事情を研究し、多くの著作を通し功績を残した。
   また、幕府の対外政策を批判し、身を犠牲にして警世の鐘を鳴らしたことでも知られ
   ている。 しかし、このため永牢の刑(蛮杜の獄)など波乱の多い生涯となった。
  ・水沢藩(現岩手県水沢市)の藩士の家に生まれ、若くして蘭学を学び医学を志し、江
   戸・長崎と渡りシーボルト塾などで西洋医学を学んだ。その後江戸に戻り、医業をしなが
   ら著作・翻訳に努め、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著した。
  ・また、あの有名な天保の大飢饉には「救荒ニ物考」を著し、救荒作物の栽培・貯蔵・
   調理を薦めたり、「避疫要法」を著し、悪疫防止方策を説いた。
  ・しかし、その後幕府の外国船打払令を批判した「戊戌
(ぼじゅつ)夢物語」を著して永牢
   (終身禁固)の刑となった。 出火に乗じて脱獄し、薬品で顔を変え、変名して各地を
   転々とし翻訳・医療を続けたが、隠れ家を襲れ自殺による最期となった。       

ごとう しんぺい
後藤 新平
〔1857(安政4年)
 〜1929(昭和4年)〕
  ・明治大正期の政治家。関東大震災後における東京復興計画を立て「大風呂敷」と称
   されたことは有名である。常に欧米の新知識を吸収し、アイデア溢れる施策にて多く
   の近代における新分野開拓に貢献した。政界では惑星的存在であったが、大隈重信
   と並び国民に訴えかける政治家として人気を博した。
  ・後藤は一族であった高野長英と同じく医者の道に進み、のちに内務省衛生局に入っ
   た。その後、台湾総督府民政長官として台湾統治に尽力し、その功績で貴族院勅撰
   議員となった。以後、南満州鉄道初代総裁、桂内閣では逓相、内相、外相、及び東京
   市長を歴任し活躍した。 そして、第二次山本内閣の内相兼帝都復興院総裁として、
   東京復興計画を立て、東京の都市計画に強力な指導力を発揮した。
  ・後藤新平は水沢藩(現岩手県水沢市)に生まれ、斎藤實(第30代総理)とは竹馬の
   友であり、”郷の三秀才”とうたわれた。また、同じ岩手出身の新渡戸稲造とも交友
   関係にあり、新渡戸の国際的な活動の支えとなった。       

いしかわ たくぼく
石川 啄木
〔1886(明治19)
 〜1912(明治45)〕
 ・「国民詩人」として愛されてきた明治期を代表する詩人。生まれ育った故郷を懐かしく
  思う望郷詩で愛唱され続けた啄木は、結核を患い26才の若さで短い生涯を終えた。
  歌人としての栄光は死後であり、死の2年前に刊行した「一握の砂」と、死後刊行され
  た「悲しき玩具」が、不朽の歌人の地位を与えた。
 ・啄木は岩手県の現在の玉山村に生まれ、幼くして神童と呼ばれ鋭敏な感受性をもつ
  少年であった。盛岡中学校(現:盛岡一高)では、教師や先輩金田一京助らの影響を
  受け文学への傾斜を深めた。与謝野鉄幹の雑誌「明星」に短歌が掲載されたのを機
  に、文学で身を立てるため上京したが、失意の内に帰郷。
  帰郷後、処女詩集「あこがれ」を刊行したが、その後郷里で代用教員、函館にて代用
  教員・新聞社勤務、そして札幌、小樽、釧路へと移り記者として活躍したが、再度文学
  活動を決意し上京。
 ・上京後、先輩金田一京助の世話のもと、小説の執筆に専念したが文壇から評価され
  ず、朝日新聞社に入社。 ここで文学者石川啄木を大きく発展させる母胎となり、歌集
  「一握の砂」を刊行し、また、大逆事件に関心をもち、「時代閉塞の現状」を中心とする
  優れた評論の執筆をした。
  しかしながら、生活の貧困も助長し、すでにその頃肉体は病に冒されており、母の死を
  追うように短い生涯を閉じた。        

のむら  こどう
野村 胡堂
〔1882(明治15年)
 〜1963(昭和38年)〕
 ・テレビや映画でお馴染みとなった「銭形平次」の”生みの親”で、27年間にわたり執筆
  した代表作「銭形平次捕物控(383編)」や「池田大助捕物全集(全10巻)」等の作品が
  ある。また、”あらえびす”のペンネームで、日本のクラシック音楽黎明期に先駆者とし
  て大きな業績を残した、音楽評論家でもある。
 ・野村胡堂(本名:野村長一(おさかず))は、盛岡市の南に位置する現紫波町に生まれ、
  旧制盛岡中学卒業後、東京帝国大学法科入学。 その後報知新聞社に入社し記者
  生活に入り、胡堂やあらえびすのペンネームで記事を連載した。
 ・昭和6年に文芸春秋社「文芸春秋オール読物号」に”銭形平次”を創作掲載し、以後27
  年間にわたり書き続けた。中高年者馴染みの”銭形平次”は、これが原作である。
 ・岩手の先人達として既に紹介した、金田一京助や石川啄木等と盛岡中学時代を過ご
  し、後輩であった啄木には文学傾斜の影響を与えたと言われている。
  地元紫波町には、胡堂の作家・音楽評論家としての業績を賛え、「野村胡堂・あらえび
  す記念館」が建立されている。 

みやざわ  けんじ
宮沢 賢治
〔1896(明治29年)
 〜1933(昭和8年)〕
 誰もが一度は見聞きしている「風ニモマケズ」を始め、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」
 などたくさんの名作を遺した童話作家・詩人としてあまりにも有名であるが、作品は世界
 各国に紹介されているほどである。
 また、賢治は文学者であるばかりでなく、教育者であり、農業者であり、そして天文・
 地質・生物・哲学・音楽・・・・あげればきりがないほど多彩な面をもち、37年の短い人生
 をあらゆるものに捧げた。
 ・賢治は盛岡高等農林卒業後、ふるさと花巻の農学校で教鞭をとり、この時代に多くの
  詩や童話を創作した。
 ・30歳で教職を離れ独居生活に入った。ここで「羅須地人協会」をつくり農民講座を開設
  し、青年たちに農業を指導した。賢治自身が、「イーハトープ」と呼びこよなく愛した岩手
  の大地とともに生きる農民でもあった。
 ・当時の東北地方は冷害に疲弊し困窮・過酷な時代の中、晩年は生きる力のすべてを
  注ぎ、農業指導・研究に取り組んだ。
 賢治生誕の花巻市内には、宮沢賢治記念館などゆかりの地が随所に点在し、賢治の
 生涯や作品を肌で感じられる。